女性村長誕生と家系図
来堕村の歴史の中でも、大きな転機となったのが、女性村長・本郷のぶこの誕生です。
のぶこは、もともと地主の家系である田代家の生まれ。父・田代久蔵の意向もあり、村長家である本郷家へ嫁ぎました。本郷家では、先代村長・本郷総一郎とその妻・とせの長男である誠と結婚。しかし昭和29年、村は大きな試練に見舞われます。
総一郎、そして誠を相次いで失ったのぶこでしたが、村人に支えられ、女性村長という当時としては異例の立場で、村の再建を担うことになりました。
のぶこの息子・本郷学は、後にのぶこの半生をまとめた著書を出版。現在は、学の娘であり、のぶこの孫にあたる本郷陽菜が、観光協会の取材にも協力してくれています。
田代家(地主家) 本郷家(村長家)
田代久蔵 ─┐ 本郷総一郎 ─┬─ 本郷とせ
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田代のぶこ ═══(結婚)═══ 本郷誠 ──┘
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本郷学(息子)
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本郷陽菜(孫)
来堕村の発展
来堕村は、これまで幾度もの困難を乗り越えながら、少しずつその歩みを進めてきました。ここでは、先代の女性村長・本郷のぶこの時代から、現在に至るまでの発展の様子をご紹介します。
苦難を乗り越えて(昭和29〜30年代前半)
昭和29年、来堕村は大きな試練に見舞われました。当時のことを知る村の方々からは、「本当に大変な時代だった」というお話を、今でもよく伺います。
そのような中、村を支えたのが、当時まだ若かった本郷のぶこでした。のぶこは村人たちと力を合わせ、田畑の区画整理や、農業のやり方そのものの見直しに取り組み、少しずつ村を立て直していきます。ちょうど全国的にも、農業のあり方を見つめ直そうという機運が高まっていた時代で、来堕村でも、収量を安定させるための新しい取り組みが、村ぐるみで進められました。
結婚・子育て支援と、人口減少への取り組み(昭和30年代)
のぶこが村長を務めた時代、来堕村では、結婚のお祝い金や子育て支援など、当時としては先進的な取り組みが数多く行われました。
当時は、若い方々が仕事を求めて都会へ出ていく流れが、全国の山間部で強まっていた時期でもあります。そうした中、来堕村では「戻ってきやすい村、残りたいと思える村」を目指した取り組みが重ねられ、近隣の山間部と比べても、人口減少が緩やかな地域として知られるようになっていきます。
名物「来堕餅」の誕生(昭和30年代)
もともとは、災害への備えとして作られていたお餅を、のぶこが味や製法を見直し、今のような形にしたと伝えられています。素朴で優しい味わいは、今も来堕村を訪れる方々に親しまれています。
結乃宮の整備と、観光地としての歩み(昭和42年〈1967年〉ごろ)
村の高台にある「結乃宮」が整備されたのも、この時期のことです。もともと村に古くから伝わる神社でしたが、社殿や参道が整えられたことをきっかけに、後に「恋が成就する神社」として、遠方からも参拝の方が訪れるようになりました。
過疎対策と、村の暮らしを守る取り組み(昭和45年〈1970年〉ごろ〜)
昭和45年ごろになると、全国の山間部・農村部で、人口減少に対応するための法整備が進みました。来堕村でも、道路や生活基盤の整備を進めるとともに、一度村を離れた方に向けた「Uターン」の呼びかけなど、独自の取り組みを続けてきました。
道の駅きだの開設と、農産物のブランド化(平成初期)
平成に入ってからは、道の駅きだが整備され、来堕米をはじめとする地元の農産物を、直接販売できる場が生まれました。全国的に「道の駅」という仕組みが広まった時期と重なり、来堕村でも、観光と農業を結びつける新しい取り組みとして定着していきます。
過疎化と向き合いながら(平成中期〜後期)
それでも、多くの山間地域と同じく、来堕村も過疎化という課題と、長く向き合い続けることになります。それでも、先人たちが大切にしてきた「人と人との温かなつながり」を絆に、村の皆で知恵を出し合いながら、今日まで歩みを続けてきました。
そして現在へ(令和)
令和になった今も、来堕村観光協会を中心に、村の魅力を発信する取り組みを続けています。SNSやこのホームページを通じて、移住や観光で来堕村と縁を持ってくださる方も、少しずつ増えてきました。
これからも、先代・のぶこが守り抜いた来堕村を、次の世代へとつないでいけるよう、私たち観光協会一同、精一杯取り組んでまいります。